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大阪府熊取町 連鎖自殺? なぜ起きた?7人連続怪死 2016.10.29

【事件概要】

 1992年6月から7月にかけて、大阪府熊取町で17歳から22歳の若者が連続して自殺、変死するということがあった。一週間ごとに、それも決まって水曜日か木曜日に自殺するというミステリーで騒がれた。

熊取町・・・・大阪府南部。泉南郡に属する。人口約43000人。


――――――――


【熊取の少年少女】

 事件自殺した5人については以下の通り。


6月4日(木)  無職・A君(17歳)が自宅そばのタマネギ小屋で首吊り自殺

6月10日(水) 土木作業員・B君(18歳)がかつて住んでいた家の納屋で首吊り自殺。

6月17日(水) 旅館従業員・C君(18歳)が農作業小屋で首吊り自殺。

6月25日(木) 熊取町在住の岸和田市職員D君(22歳)が町内の森で首吊り自殺。

7月2日(木)  熊取町内の女子大に通うE子さん(19歳)が胸を果物ナイフで刺し自殺。

 また5人の自殺の前に2人の17歳が亡くなっていた。


4月29日(木) シンナーによって板金工のX君(17歳)が熊取町内の貯め池に落ちて死亡。

5月29日(金) 無職・Y君(17歳)がシンナー吸引による心不全で死亡。


 シンナーで死んだ2人を合わせると、死体が見つかった場所はすべて半径1.2km以内に集中している。この狭い範囲の中、2ヶ月半で7人の若者が亡くなっていた。

 自殺、不審死の熊取町の若者たちのうち、岸和田市職員のD君と女子大生のE子さん以外の5人はシンナーやバイクをキーワードに接点があった。



Y(17)無職

【3番目の自殺者 6月4日(木)】

6月4日木曜日、タマネギ小屋にて首を吊っているのを発見される。

警察がマークしていた暴走族グループである『風(KAZE)』をKと共に旗揚げする。地元では有名なワル。

翌週に自殺するKとは中学の同級生であり、親友であり、バイク仲間であり、シンナー仲間であった。

中学3年頃からほとんど学校に顔を見せず、仲間とダベったり、パチンコなどに興じていた。
中学卒業後、美容師の専門学校に入学するも、1年も経たずに中退しており事件当時は無職だった。愛車はHONDAのCBX400。父親が某学会員。

4日午前0時ごろ自宅に帰り、同2時ごろ再び外出。その3時間後に遺体で見つかった。

ポケットの中に「借金を返して欲しい」という折り込み広告の片隅に書かれたメモを所持していたが、遺書らしき遺書は発見されていない。自宅の仏壇にはYが金を借りたとみられる友人2人の名前と10数万円と記したメモが残されていた。

生前に『白い車』に追われていた。




K(18)建設作業員

【4番目の自殺者 6月10日(水)】
警察がマークしていたグループ『風(KAZE)』のリーダー。上記の無職Y同様、地元では有名なワルだった。

やはりシンナー常用者で補導歴もあり、シンナーをキメているときに公務執行妨害で逮捕されたこともある。愛車はHONDAのCBR400。
Kが自殺した納屋は事件後すぐに取り壊され、今では空き地になっている。
Kが自殺した納屋は事件後すぐに取り壊され、今では空き地になっている。



駅前にワンルームマンションを借りており、そこが仲間たちのたまり場になっていた。

駅前の住民の証言によれば、バイクや自転車の盗難はおろか、自動販売機や公衆電話を破壊するので迷惑してしていたという。

親友であった無職Yの葬式で、「なんで死んだんや」と泣いて憤り、その時参列した仲間たちに「悩みは相談し合おう。Yのぶんまで俺たちが頑張って生きよう」と訴えかけるなど前向きな姿勢を示していた。

ヤンチャではあったが、人望は厚かったようで、当人が自殺した際、その葬儀には彼を慕っていた後輩や、近隣のグループからも参列者がつめかけ、その数400名にもおよんだほどだった。

中学卒業後、旅館従業員T(翌週に自殺)と共に父親の会社を手伝っていたが、1991年にその会社が倒産した。それと同時に住家を手放すことになったのだが、それをとても悔しがっていたという。
なすすべもなく家を手放した後も、一生懸命働いて家を買い戻そうとしており親孝行でもあったとされる。

自分が会社を再建させ、母親を早く楽にしてやりたいと常日頃から公言しており、本人も自身をして『マザコン・ヤンキー』と評していた。

彼の通っていた中学校の校長は以下のように証言している。

証言1
仲間と一緒に校舎の窓ガラスを49枚も割ったり、卒業式にバイクに乗って現れたりということもあったようですが、卒業してからは、仕事帰りに2回ほど遊びに来てくれて、給食室のドアを修理してくれたり、スズメバチの巣をもってきて理科の先生を喜ばせたこともあります。《中学の校長》


窓ガラス49枚というのは尾崎豊を彷彿とさせるタフな枚数であるが、その一方で優しい人柄を覗かせる部分や、教師に「体に響くから、シンナーはやめろ」と諭され「うん」と頷く素直な部分もあり、これらが人望に繋がっていたと思われる。
尾崎豊同様、繊細な所があったのかも知れない。尾崎豊も変死であるし。

ともかく、近所でもキチンと挨拶をする子という評判で、「ヤンチャはするが、弱い者いじめはしないKのことだから、いずれは人の上に立つひとかどの人間になるだろう」――と教師は見ていた。

当時付き合っていた女性が妊娠していたため、「いよいよ生まれるんや、お祝いくれよ、お祝い」などと笑って話しており、近々結婚する予定で新居も探していた。

だが彼は死んだ。

恵林寺という古寺の、参道脇の納屋で首を吊って。

「自殺する前々日には仕事先に持ってゆく保温式のランチボックスを買っておいてくれるよう頼まれていたんです」と母親は息子の死を信じられないでいた。

現場に駆けつけた母親は、ロープにぶら下がる息子の姿をして、『あり得ない様子だった』と主張している。

肩をいからせて、前のほうを睨むようにして、こぶしをギュッと握りしめとったんですよ。ふつうは体はダラリとなるでしょう。警察の人に私言うたんです。『これでも自殺なんですか』って。『いや最近はこう言うのも多い』とか言われましたけど、首吊った体に最近とか昔とかあるんですかね。
あの夜は(註:息子が亡くなった前日に当たる6月9日)夕方、私と一緒に食事をしたんですよ。友達と何かの約束があって、『あんまり腹一杯やと具合悪い』いうて、御飯も少なめに食べてね。出かけていって、そのまま……普段と全然かわらへんかったし……。


息子は確かに言うてました。カローラやったと思うけど、白い車にいつも付け回されて『俺ヤバイんだよ』とか。息子だけやなくて、友達のY君も集会の時、ふと後ろを見るといつもおるんやって……。運転しとるオッサンの顔がどうとか、息子と話してたこともありますわ。



T(18)旅館従業員


【5番目の死者 6月17日(水)】

高知県出身。元野球少年で、野球で有名な私立高校を中退後、大阪に出てきて事件前年までKの父親が経営していた土建会社で建設作業員Kと一緒に働いていた。
事件当時は三重県鳥羽市の旅館従業員。

無職Y、建設作業員Kのバイク仲間で『風』のメンバーだった。

斜面になった畑の側にあった小屋で手を縛り首吊り自殺を遂げる。

鳥羽市の職場には「友達の葬式に出るので休みが欲しい」と告げ2日間の休暇を取り、建設作業員Kが自殺した2日後の6月12日に熊取へ戻った。だが葬儀には間に合わなかった。

そして帰郷後は友人宅を転々としたのちに自殺。

農作業小屋で首吊り自殺をしたが、両手がビニール紐で後ろ手に縛られていた。


検死官が来て調べたが、現場に争った形跡がなく、自分でも縛れる縛り方であったため、警察は自殺と断定。すぐ近くの民家の人も物音を全く聞いていない。首吊りの紐をほどかないよう、自分で縛ったものとされている。

Tが勤めていた旅館の支配人によれば、Tの評価は悪くない。

勤務態度は真面目で、服装もきちんとしており、ヤンキー風のところは全然見られなかった。
金を貯めて18歳になったら自動車の免許を取るんだと話していたという。

亡くなる5日前にあたる6月13日昼に勤めている旅館に「明日帰ります」と電話をしているが、帰らず、そのまま自殺している。

16日昼。帰郷して半年ぶりに会ったかつての恋人に「近く結婚する」という話を聞かされ、その直後から「ロープはないか」と自殺する素振りを見せていたという話がある。これをして自殺の根拠と考えることも出来るが、これに関して「あくまで冗談ぽく言っていた」という証言もある。

そしてやはり『白い車』を知っていた。

自殺という警察発表に納得できない建設作業員Kの母親が、Tが自殺する2日前にTに電話で問いただしている。

母親が「息子が白い車に追われていたと言っていたが本当なのか?」と問うと、Tは「うん、俺とKは見た」と答えたという。
このことから、Tが三重県へ働きに出る前に『白い車』の話が持ち上がっていたことがわかる。一連の自殺騒動の半年前だ。




F(22)公務員


【6番目の死者 6月25日(木)】

熊取町在住だった岸和田市職員。『風』連中とは交流があった形跡なし。

熊取と隣接する貝塚市との境にある山林で、ピンク色のカッターシャツをロープ状にして首を吊る。

仕事はゴミの回収が主で、Fは粗大ごみの担当だった。無断欠勤もなく真面目な勤務態度、好青年だったと同僚は評する。
マラソンが趣味で市役所の陸上サークルに所属していた。
当日も弁当を持って自宅を出ている。

不可解とされるのがFの死の状況だ。

熊取と貝塚市の境にある山林で発見されたFは、栗の木の幹にシャツを掛けて首を吊っていたのだが、その幹の高さが到底手の届く場所になかった。

結局、警察はFの死を自殺と判断したが、『他殺説』の可能性を捨てきれない地元の者たちはその判断に首を傾げた。




G(19)女子大生

【7番目の死者 7月2日(木)】

鳥取県米子市出身。事件のあった年の4月から町内の大阪体育大学に通い、陸上競技に励んでいた。

『風』連中との接点はなし。前述の公務員Fとも接点はない。無理やりこじつけるなら、2人とも『陸上競技』に励んでいた。
シンナーもなし。

7月2日午後8時40分ごろ、下宿近くの町営グラウンド脇で血まみれで発見される。
発見時、グラウンド横の側溝に倒れ込んでおり、左胸に致命傷、首筋4カ所に切り傷があった。近くに落ちていた果物ナイフが凶器だった。

発見直後は生きており、しきりに「違う、違う」と訴えていた。
病院へ緊急搬送されたが、日付の変わった3日午前2時10分、出血多量で死亡している。

死の2日前に1000メートル走の自己新記録を出して大喜びしていたこと、8月には鳥取に帰省するつもりで、テレビ番組『北の国から』『大相撲ヨーロッパ巡業』の録画を実家の者に自殺の3日前に電話で頼んでいたこと。以上の2点から自殺するほど思い詰めていたとは考えにくい。

異性関係はなく、4月からはじめた寮での新生活でもトラブルはなかった。

発見された当日7月2日の夕方にはスーパーで買い物している姿を友人が目撃している。
目撃した友人曰く、「彼女は普段通りで、何ら変わったところはなかった」そうで、やはり自殺する動機は見あたらない。

左胸の致命傷の他に首筋にためらい傷が残されていたことから自殺と見なされた。

発見された付近は午後8時の時点で人通りもあり、自殺に適した場所とは言い難い。

だが首の切り傷をみとめた警察は、これを『ためらい傷(註:自殺者が自殺を吹っ切れないまま自身に刃物を向けることで生じがちな、致命的ではない傷)』として自殺と断定。

生前、怯えた様子でしきりに「黒い車に追われている」と友人にもらしており、ナイフで胸を刺した日も近くに車が止まっていた。――が、彼女を車が追い回していたという事実は確認できていない。

彼女の父親は、「殺されたんじゃないかと思う」と、はっきりと娘の自殺を否定している。




A(17)板金工

【1人目の死者 4月29日】
紹介する順番が前後するが、Aが最初の死者。『7人』の起点とされる。
当時17歳の板金工。
無職Y、そして作業員Kのバイク仲間だった。そして彼らの中学校の後輩でもある。

仲間とシンナー遊びをした直後、「泳ぐ」と宣言してひとり池に飛び込み、遊泳中に死亡。心不全だった。




B(17)無職

【2人目の死者 5月29日】

無職。自室でシンナーを吸引し、心不全で死亡。
一ヶ月前に死亡した板金工Aと同様、Y、Kのバイク仲間だった。

部屋でうつぶせになって死んでいるところを母親が発見。
母親はBに対し、以前からからシンナーをやめるように言い聞かせていたが無理だった。家庭内不和アリ。
シンナーを乱用していたせいか肝臓が弱く、死亡する時分にはギスギスに痩せていた。
作業員Kはこの後輩たちの葬儀に参列している。




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【 八王子ホスト殺人事件】鍋で溶かされた土田正道さんの評判が悪すぎる件 2016.10.28


2010年11月25日、東京・八王子のホストクラブ「バリカン」で、同店経営者の土田正道さん(43=当時)が殺害された。土田さんは“西東京のカリスマ”と呼ばれていたことから、「カリスマホスト殺人事件」とも称される本件だが、しばらく白日の下に晒されることはなかった。それは土田さんの遺体が溶かされ、跡形もなく処理されていたからである。

sitai nabe



 捜査が大きく進展したのは昨年4月、共犯者の自宅汚水槽から、インプラントの部品が発見されたことだった。警視庁捜査一課の執念の捜査により、これが土田さんのものであることを突き止める。そして同年9月、共犯者や主犯が次々に逮捕された。

 土田さんだけでなく逮捕された者たちも皆「バリカン」の関係者だった。同店の共同経営者、玄地栄一郎元被告(32=当時)は事件を主導したとされるが、昨年、立川拘置所で自殺を遂げ、本件での公判には至らなかった。実行犯の阿部卓也被告(27)も「バリカン」の元ホスト。懲役20年の判決を受け控訴している。

インプラントの部品が見つかったのは卓也の父親である阿部秀樹(59=当時)の自宅。卓也の当時の妻(31=当時)は、土田さんの遺体を「バリカン」から秀樹宅に運搬し、その後、骨を遺棄する際にも秀樹と卓也を河原まで連れて行った。

 関係者らの公判は昨年から東京地裁立川支部で開かれていたが、今年10月、拳銃調達役である平正喜被告(31)に懲役20年が言い渡され、ひとまず一審は終結した。それぞれの思惑、動機、いろいろ明らかにされたが、なんといってもこの事件の特異性は遺体の処理方法だろう。これに関わった、阿部秀樹の公判でそのおぞましさが明らかにされた。

明らかになったおぞましい遺体処理方法
「その日の朝8時頃帰宅すると、卓也がいて、台所には鍋がありました」

 卓也被告は土田さんを殺害後、遺体と寸胴鍋、コンロなどを秀樹宅に運び込んでいた。遺体を鍋に入れ、パイプ洗浄剤などの類いの強アルカリ性の薬剤を大量に投入し、コンロの火をつけ、薬剤で煮溶かしていたのだ。

 元妻は卓也から「父親を飲みに連れて行ってほしい。その間に死体を溶かす」と頼まれていた。そのため前日の夜から秀樹は元妻と飲みに出かけていたのだ。

 しかし、予想に反してなかなか遺体の処理が終わらず、結局朝に。それでも遺体は溶かしきれなかった。秀樹が帰宅したとき目の当たりにしたのは、自分の息子である卓也被告が遺体を鍋で煮込んでいる場面だった。

「息子をそのままにしておけない、息子を犯罪者にするわけにはいかない。鍋もあって、死体もそこにまだあって、どうにもできず、しかも卓也も『頼むから続けさせてくれ』と言うので通報できなかった」

 公判でこう振り返った秀樹は、その後、息子の願いを聞き入れ、リビングで遺体が溶けるのを待ち続けたという。

「キッチンには入らなかったので鍋の中も見てません。溶けるときの音は聞こえました。けっこう大きな、ジュッて音だったんで」

 くつろぐ場所であるはずのリビングで身の毛もよだつ時間を過ごした。ところが翌日になっても息子の仕事は終わらない。結局、秀樹もついに死体損壊に関与してしまった。

秀樹「骨を砕くのを手伝いました。初め卓也は『何もしなくていいから』と言っていたんですが、だんだん焦ってきたようで、鍋から骨出して、砕き始めて、その音が大きくなってきて、見るに見かねて『手伝うよ』って」

弁護人「どんな気持ちでした?」

秀樹「気持ち悪いっていうか、なんで私がやんなきゃいけないんだという思いはありました。鍋を洗ったり……」
 その後、骨だけとなった遺体を浴槽で砕き、大きな骨片は河原で“バーベキュー”を装いながら、卓也被告とともに川に流したという。この“バーベキュー”を提案したのも、秀樹だった。

 偶然に事件に巻き込まれながら、最終的には主体的に関与してしまったのも、全て息子への愛情ゆえか。秀樹には今年1月、執行猶予判決が下されている。






ここからは当時の土田さんの評判です。

「西東京(八王子、立川を含む西多摩地区)でホストクラブを開くなら、事前に挨拶として金を持って来い」

 土田さんは自他ともに認める「西東京の顔役」だったようで、その強気な態度に反感を持つものも少なくなかったという。失踪前後の状況をよく知るホストクラブ関係者は語る。

「自分はホストブームを作った人間だと言う自負が強くて、とにかく他人にもお金にも厳しい人間でした。やばい女性に手を出したようで、小指を飛ばされたこともあります。黒い連中との付き合いも噂されていたし、金銭トラブルも多かった」

 殺害現場は八王子市内のホスト店B説が濃厚だ。以前、家宅捜査をかけられた際に被害者の血痕も確認され、Bの経営者は土田さんから多額の借金をしていたとも言われている。また、今年初旬には元従業員の男が客の女性ら3人を刃物で刺したことで現行犯逮捕されている、いわくつきの店でもある。

「土田さんは自分がカリスマだということを鼻にかけているところがあったのでよく思わない人も少なくなかった。西東京を代表しているという立場もあったので、一部の歌舞伎町系ホストとも険悪でした。かなり敵が多かったので、ホスト仲間の間では、どこかで殺されたんだろうというのが定説でした」(別のホストクラブ従業員)


「土田さんは自分がカリスマだということを鼻にかけているところがあったのでよく思わない人も少なくなかった。西東京を代表しているという立場もあったので、一部の歌舞伎町系ホストとも険悪でした。かなり敵が多かったので、ホスト仲間の間では、どこかで殺されたんだろうというのが定説でした」


女の髪引っ張ってエレベーターの壁にガンガンぶち当てる
その勢いのまま他店の従業員をいきなり訳もなくフルボッコにするわ
切れられて灰皿(鉄製)をぶん投げるわマイクもぶん投げるわマジかわいそうだった
一人の従業員は目から血が飛び出して大変だったよ

阿部卓也にしたってそうだ。あいつはマジでかわいそう
客引っ張ってこいって土田に言われてキャッチしたら私服に捕まって営業停止

1000万支払えって取り巻きつれて阿部の家いって恐喝まがい
やらなきゃやられるのになんでやって捕まるんだ、ちゃんといえばいいのに

熱湯かけたり凄まじかった

名古屋の芹沢雪也も土田に詰められてやめた奴だ

あいつの場合は売れててナンバー1だったのに売上あって貢献してたのにもかかわらずケツにマイク突っ込まれてお前は犬か!ワンて言えオラとか
それを下っ端に見られてマジでかわいそうだったし


全然知らない客にマイク渡さなかったからってピアス引っ張って耳切れちゃったりとか歯が折れたことも頻繁にあった


はっきり言って阿部に至っては完全に被害者だよ。ていうか平以外は全員被害者

土田の得意技
*女の前でボコボコにして全裸にさせ、ケツに割り箸を入れる。そして営業が終わるまでその格好で新規・他の客につける↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑ぶっちゃけこれ何人も被害者いるよな

従業員のバースデーイベで売上悪いから主役の男の子を従業員使って両手両足押さえさせて助走つきの股関金蹴りで泡吹かせて気絶だと!







テレビ報道を考える!!香川3人殺害事件 2011.06.17

2007年11月16日午前3時45分頃、61歳無職男が、坂出市林田町の義姉(当時58歳)宅に侵入。和室で寝ていた義姉の首を絞めようとしたが、抵抗されたため、持参していた包丁で胸などを何度も刺して殺害。隣家から泊まりに来ていた義姉の孫である長女(当時5歳)と次女(当時3歳)に対しても胸などを複数回刺して失血死させ、3人の遺体を約2キロ離れた坂出港近くの資材置き場に運んで埋めたとして、高松地検が、61歳無職男を、殺人、死体遺棄などの罪で起訴した。


フジテレビの朝の報道番組「とくダネ」でもトップニュースとして報じ、約50分間もの時間を割
いた。

◆番組の内容
・事件の急展開に驚く現場や出演者たち。
・今まで報じられなかった義弟と被害者の祖母との関係。
・父親の心境。
・これからの捜査の行方。

などで構成される。

◆報道の疑問点

・警察は事件発覚直後からマークしていたのに、報道はされなかったのはなぜ?

・いままでのマスコミ報道はなんだったの?
これにつきる。
 
一連の報道を見ていると、誰もが「秋田小1殺害事件」とダブらせて今回の事件をとらえていたのではないかと思う。被害者の父親は執拗にマスコミからインタビューを求められ、それに困惑したり、イラだつ様子はいかにも事件に関係している人物かのように画面に映し出されていた。
映像だけならまだしも、「事件現場に押し合った跡や、悲鳴も聞こえなかったので、身内の犯行可能性がある」の、台詞も必ず登場するものだった。
さらに、ニュース番組で見る被害者の家族相関図には被害者と父親の顔写真だけがでている。(これは犯人逮捕後の今でも)

悲劇の母親を装っていた畠山鈴香被告の言動が記憶に新しい人なら、「オヤジさんが怪しいのかな・・・・」と、推理しても仕方がない報道だった。

ところがどっこい。

逮捕されたのは被害者の義弟。今までの報道では登場しなかった人物だった。
(とくダネでは25日に義弟の息子に取材をしているがオンエアされたかは不明)
思わぬ急展開と番組では報じていたが、そう思ったのはマスコミや私たちだけで

今朝の番組では
小倉氏「警察は当初から怪しいという風に睨んで捜査を順調に続けてたとみていいんですかね」

現場の岸本氏「そうですね。やはり金銭トラブルがあったということと、川崎容疑者が事件発覚後に行方があまりつかめなかったことから、浮上したんじゃないでしょうか」

え、そうなの??
事件発覚後から警察は父親ではなく、他に睨んでいる容疑者がいた。
報道で取りだたされたのは父親だけ。
どんな身内がいるかぐらい簡単に調べることが出来るのに。

犯人が逮捕され、初めての今朝の番組では「共犯がいる可能性もある」と報じ、まだまだ父親へのマークを続ける姿勢のようだった。

◆どうあるべきだったか
マスコミは事実の報道ではなく、ドラマになる画を報道にしていたように思う。
事件のシナリオを演出して、それに当てはめるように取材して編集して、
視聴者を飽きさせないことを重視しているようだ。

裏付け取材を徹底していれば、容疑者の可能性をもっと広められたはずで、疑いの目が父親一人に集中することもなかった。
それだけでなく、報道番組の性質(ドラマチックに事実を創作する性質)そのものが変わらなければ裏付け取材をしてもオンエアされないということになるだろう。
そして、その性質を生んだのは、私たち視聴者であることも忘れてはならない。


《番組情報》
番組名 とくダネ!
放送局 フジテレビ
時間帯 7:59~9:55
キャスター 小倉智昭 笹井信輔  笠井 信輔 佐々木恭子

【成井 真梨子】




2007-11-28■香川・坂出殺害事件 ■コメント(4) ■トラックバック(0)
 本人や親、被害者側の責任は報道しなくていい?
●テレビ報道でも新聞報道でも指摘できる大問題の一つは、何か事件や問題が起こったとき、組織(企業・役所・学校・病院・その他団体など)の責任や、それらがつくる現行制度の問題は指摘されるのに、その事件や問題の被害者となったふつうの人びとの責任が一切不問に付されていることです。思いつくままに例を挙げましょう。

◆神戸の私立高校生徒のいじめ自殺事件→学校はなぜ気づかなかったのかと追求されるが、親がなぜ気づかなかったかは報道されず、たぶん取材もしていない。私は、親が気づかないことを学校に気づいてくれと期待するほうが、どうかしていると思う。

◆乳母車が電車のドアに挟《はさ》まれ、そのまま発車してしまった事件→ホームに駅員が不在、車掌から見えにくかった、ドアは数センチのものを挟めば検知できるはずなどと報じられるが、閉まりかけたドアに乳母車を押して駆け込むバカ親の責任は一切報道されない。

◆エスカレーターの穴に指を挟まれ切断された事故→発生後2~3日は、国内の全エスカレーター全段に黄色い枠が描かれ、これを踏むなという注意アナウンスや掲示もしばしばなされており、黄色い枠の内側に足を置く限り事故は防げたはずという事実が、ほとんど報じられなかった。

◆妊婦を乗せた救急車が、受け入れを拒否する病院の間で「たらい回し」にされ、死産などにつながった事件→病院や産科医が少ない医療体制の不備は語られる。私は、かかりつけの医院がなぜ患者を受け入れないのか訝《いぶか》しく思っていたが、10月7日朝刊の中日新聞・東京新聞で、受け入れを拒否される妊婦は、妊娠しているのにそもそも医者に一度も行っていないことが多い(8月に救急車内で死産した奈良県の妊婦もそうだった)と知った。妊娠に気づかなかった、受診するカネがなかったなど理由はさまざまでも、赤ん坊を死に至らしめた責任の一部が当の妊婦にあることは明らかだ。

◆古い家電製品が発火して焼死した事件→たとえば30年間使った扇風機が火を噴く場合、絶縁部品が経年変化によって劣化したという報道はあるが、ホコリやゴミが詰まっていたとは報道されない。テレビも煙を出したり火を噴くことがあり、部品の劣化や設計ミスが直接の原因になることもある。しかし、ユーザーが内部のホコリ・ゴミ掃除を怠ったことが発煙や発火の直接の原因になったり、それを広げる間接的な原因になるケースが、非常に多い。「5000円の扇風機の安全性についてメーカーに30年後まで責任を持て」と要求するのは、明らかに酷であり非現実的な話。社会通念上の耐用年数(まあ、いいところ10年。法定上は数年)を超過した製品の安全性は、使用者が第一義的に責任を負うべき。

◆一時盛んに報じられたシュレッダーによる幼児などの指切断事故→高い製品は、そもそも指が入りにくい設計にしてあるが、紙を入れて使う製品なのだから、絶対に隙間は必要。そして、幼児や赤ん坊の髪の毛の厚みは、紙の厚さと同等だから、シュレッダーに幼児や赤ん坊の身体の一部が挟まる事故は、原理的に避けることができない。だから、シュレッダーを幼児や赤ん坊がさわれるような環境に置く親はバカであり、子どもが事故にあえば当然、責任がある

●いくらでもありますね。時津風部屋はムチャクチャですが、週刊誌報道によれば殺された若い力士は親に「いい子になるから、迎えに来てください」という趣旨の電話を入れていたらしい。迎えに行かなかった親は、子を見捨てた責任がある。高校を中退したこの若者は、親からすれば必ずしもいい子ではなく、たぶん世間でいう「不良」だったのでしょう。親は子をもてあまし、「存分に鍛えてやってください」などといって部屋に預けたのかもしれない。学校から見放され、親からも見捨てられ、師匠や兄弟子たちになぶり殺された若者が哀れです。

●犯罪者が処罰されるのは当然でも、犯罪者は必ずしも責任者とイコールではありません。そして、事件や事故を減らすには、そのことに責任ある者の責任を正当に指摘し、その者に対策や改善を求めなければならない。

●その責任者が、ふつうの人、ふつうの親などの場合は、テレビや新聞にとってはお客さんだし、政治家にとっても票を入れてくれるお客さんですね。だからテレビや新聞も、政治家も、お客さんの責任を問う発言をあまりしないのです。しかし、私たちはみな、ふつうの人であり、ふつうの親なのだから、その責任は、誰にいわれなくても自覚しなければならない

名古屋アベック殺人事件 2009.11.01

この事件は1988年、名古屋で起こった。1989年の「綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人」と双璧を成す、少年犯罪史上もっとも残虐な事件として今も知られている。

 事件の主犯の少年A(当時19歳6ヶ月)は中学を卒業後、鉄工所の作業員や、土工などで短期間勤めたが、その後暴力団員と懇意になり、付かず離れずの関係となる。事件当時は鳶職をしており、共犯の少女E子と同棲していた。
 彼らは名古屋市中区のTV塔付近にある噴水にたむろしていたので、「噴水族」「TV塔族」などと呼ばれていたようだ。少年Aは昼間は鳶で働き、夜はE子を連れてふらふらと噴水に集まり、仲間と合流するという毎日を送っていた。
 事件当夜、そこに集まったのは主犯のA、B(17歳)、C(18歳)、D子(17歳)、E子(17歳)に、暴力団の使い走りをしていた高志健一(20歳)の6人である。
 噴水まわりでシンナーを吸いながら何ということもなく「金が欲しいな」という話になり、ひどく短絡的に「じゃあ盗ろう」という結論が出た。車で公園や埠頭などを流し、いちゃついているアベックを脅かして金を巻き上げよう、と誰からともなく言い出し、全員がそれに賛同する。
 1度目の襲撃は失敗するものの2度目は成功し、それに味をしめた彼らは「もう1回やろう」と言ってまた車を出した。そして襲われたのが、本事件被害者となるYさん(19歳・理容師)とZ子さん(20歳・美容師)である。2人はお互い忙しいながらも、たまの休日や少し時間のあいたときなどにデートし、「将来ふたりでお店をもとう」と誓ってせっせと貯金していたという。Z子さんは敬愛の意をこめてYさんを「お兄ちゃん」と呼び、両親公認の非常に仲のいい恋人同士だったようだ。

 1988年2月23日、午前4時半。Aたちは2台の車に分乗し、Yさんの車に狙いをつけると、バックして逃げられないよう前後に車をぴたりと止めた。そしてウインドウを開け、「いちゃついてんじゃねえ」などと威嚇、挑発を繰り返した。
 Yさんは身の危険を感じ、車をぶつけてスペースを確保し、逃げようとした。だがそれが火に油をそそぐ結果となった。
 犯行に使われた車のうち一台はAの車だが、どうやら新車だったらしい。加えてもう一台は暴力団員の「兄貴格」から借りた車だった。この大事な二台を損傷され、Aたちは逆上した。
 激昂した彼らは最早金を奪うことは二の次となり、Yさんの車のフロントガラスを鉄パイプで割り、YさんとZ子さんを引きずり出した。
「この車、どうしてくれるんだ。ふざけやがって」
 怒鳴りながら鉄パイプや木刀でYさんを殴るうち、怒りはますます高まってきた。典型的な集団ヒステリーである。Yさんは抵抗したがやがて完全に叩きのめされた。それでもおさまらず、少年3人はZ子さんを押さえつけると、輪姦すると宣言した。ラリった少女ふたりは「やっちゃえやっちゃえ」と手を叩いたという。
 少年はZ子さんを輪姦し、殴打した。殴打があまりに長くつづいたので、Z子さんの顔がみるみる変形していくのを目の当たりにしたYさんは、命の危険を感じ、
「お願いです。彼女だけは助けてやって下さい」
 と泣いて懇願したという。しかし少年たちはYさんの腹を蹴りあげ、黙らせた。Z子さんへの暴行には少女2人も荷担し、体に煙草の火を押しつけたりライターで髪を焼くなどしたようだ。
 輪姦が終わり、少年たちも少し落ち着きを取り戻した。金を奪い、輪姦し、車は壊れている。発覚すればきっと逮捕されるだろうし、かといってこのまま2人を帰すわけにもいかない。仕方なく少年たちは瀕死のYさんと放心状態のZ子さんを車に乗せ、あちこち連れまわしながら、「これからどうしよう」と車内で相談した。
「車の修理代、どうしょう」
「俺、金ないよ。どうやって弁償すんの」
 話題は主に2人のことではなく、車のことだったという。車を借りた暴力団員に連絡をとろうと事務所に電話したが、なかなか連絡がつかない。やっと電話が通じたと思ったら、「面倒はてめえらで始末しろ」と投げだされてしまった。
 結局、なにひとつ具体案は浮かばない。持て余したAはついに、
「男はもうだいぶ怪我もしてるし、やっちまおう。女は売り飛ばせばいいや。その金で車を修理しよう、それでいいだろ」
 と言い出した。反対する者はなかった。
 彼らはYさんを車からおろし、両手をロープで縛ると、Yさんが哀願するにもかかわらず、Aがロープを二重にその首に巻きつけて首の後ろで交差させ、一方の端をBにわたした。そして、ロープの両端をそれぞれ2人ずつで持ち、綱引きの要領で両方から力一杯ひっぱって絞殺した。
 Z子さんはその間ずっと「ここどこですか、お兄ちゃんはどこに行ったんですか」と言いつづけていたという。
 Yさんの死体は車のトランクに積み込まれた。Z子さんは目隠しされていたのでそれを見ることはできなかったが、なんとなく全てを察知したらしく、車内ではずっとすすり泣いていた。
 24日、少年たちはZ子さんを連れ、BとCが同居しているアパートに泊まった。そこでまたZ子さんは輪姦されている。
 6人の少年たちはふたたび「これからどうしよう」と相談した。売り飛ばすことにしたはいいが、暴力団員に見放されてしまった今となってはもうあてがない。かっとなって犯行に及んだものの、ふと気がついたときには取り返しがつかない状況で、知恵も出てこなければ頼れる先もない。また、抑制する者もないからずるずると悪い方へ流れていくばかりである。
「女も殺そう」
 その結論にたどりつくまでに時間はかからなかった。
 25日深夜、少年たちはZ子さんを連れて三重県の森に車を走らせた。そこで少年らは交代で死体を埋めるための穴を掘り、Z子さんに「最後になにかして欲しいことはあるか」と訊いた。
「せめて、お兄ちゃんと一緒の穴に埋めて下さい。……最後にお兄ちゃんの顔をみせて」
 Yさんの死体から目隠しをはずし、顔を見せてやると、Z子さんは泣きながらいまだに死体の手首を縛ったままのロープを解いた。
 少年たちはZ子さんを穴の近くまで連れていくと、Yさんの殺害方法と同じく、ロープを首に巻きつけて両側から力まかせに引っぱりあった。
「綱引きだ」「この煙草、吸い終わるまでにやっちゃえよ」
 などと笑いながら殺した、というのは事件発覚当時、かなり有名になった話である。

 27日、目撃情報などから主犯が逮捕され、そのまま芋づる式に6人全員が捕まった。死体は自供どおり三重県山中から発見された。一審でAは「未成年だから死刑になるはずない」とうそぶいていたが、裁判長は「一片の情状酌量の余地もない」として求刑どおりの死刑を言い渡した。Bは無期懲役となり、高志被告は懲役17年。C以下3人はそれぞれ5年から10年の判決となり、AとBのみが控訴。
 その後、名古屋高裁は一審判決を破棄し、Aを無期懲役、Bを懲役13年とした。

市川一家四人殺人事件 2009.11.01

◆関 光彦


 1992年の事件である。

 2月12日深夜、千葉県市川市でコンビニへの道を自転車で急ぐ少女がいた。少女は15歳で、勉強中にシャープペンシルの芯が切れたためコンビニへ買いに出たのである。クラスの副委員長をつとめ、演劇部と美術部をかけもちする真面目な生徒であった。
 しかし帰宅途中、自転車は背後から走ってきた車に追突され、少女が転んで膝に擦過傷を負った。
 車からおりてきた男は彼女を救急病院へ連れていき、手当てを受けさせた。そのまま自宅まで送り届けてもらえるものと少女は思っていたが、しかし突如男は豹変し、ナイフを突きつけてきたのである。
 頬を切られて怯える少女を男はアパートへ連れ込み、2度犯した。そして現金を奪い、生徒手帳を出させて住所と名前を控えた。
 男の名は関光彦。まだ19歳になったばかりで、余談だがこの22時間前にも24歳のOLを殴りつけ、強姦している。

 3月5日午後5時前、関は少女の自宅へ押し入った。
 事前にかけた電話に誰も出なかったため彼はてっきり家は無人だと思い込んでいた。だが、実際には少女の祖母が留守番をしていたのである。
 関は祖母に向かって、
「通帳を出せ」
 と凄んだが、彼女は怯えた様子もなく自分の財布から8万円を抜き出し、これをやるから帰れ、と言った。
 馬鹿にされた、と思い関はカッとなった。さらに脅しつけたが老女がひるまず警察に通報しようとしたため、関は激昂し彼女を配線コードで絞殺する。
 死体を横にさらに金品を漁っていると、午後7時頃に母親とともに少女が帰宅してきた。
 関は母親を包丁で刺殺。そして床に広がったその血と尿を、娘である少女にタオルで拭き清めることを命じた。目の前で母親を殺され、放心状態の少女は唯々諾々とそれに従った。
 その後、保母に連れられて少女の妹が帰宅。
 夕食後、まだわずか4歳の妹は絞殺された祖母の死体が転がる部屋へ、TVを観ていろと追いやられる。
 それから関は少女を、本人いわく「気分転換しようと」強姦した。しかし凌辱の最中に少女の父親が帰宅してきたため、これをも刺殺。通帳を奪ったあと、少女をラブホテルへ連れ込み、その場で2度強姦している。
 翌朝、少女の家へ戻ってみると、目を覚ました4歳の妹が泣いていた。
 泣き声に腹を立てた関はその体を掴み、背中から包丁を突き入れ胸にまで貫通させた。
 「いたい、いたい」と幼い妹が細い泣き声をあげるのを聞き、少女に向かって「楽にさせてやれ」と言ったが、少女が動けずにいたので関が絞殺したという。
 恐怖の頂点にいた少女は、わずか4つの妹を殺されて糸が切れたようになり、そのとき初めて関に歯向かった。
 関は少女にも包丁をふるい、左腕と背中を切りつける。
 しかし凶行はそこまでだった。通報によって警官が駆けつけたのだ。関は少女に包丁を持たせ、
「お前、これを俺に突きつけて脅してるふりをしろ」
 と言った。しかし矢継ぎ早の不幸に身も心も疲弊しきっていた少女は、呆然として座り込んだまま動かない。
 苛立って少女を怒鳴りつけた瞬間、雪崩れ込んだ警官隊に彼は捕縛された。
 少女が14時間ぶりに保護され、毛布をかけられたその時も、傍らには少女の母、父、祖母、妹がものいわぬ死体となって転がっていた。



 関光彦は1973年1月に生まれた。
 祖父は戦後、一代で鰻屋チェーン店のオーナーとなった成功者であったが、その愛娘と駆け落ち同然に結婚した男は、絵に書いたようなろくでなしであった。
 光彦が生まれたため祖父も二人の仲を許さざるを得なかったのだが、飲む・打つ・買うの悪癖を備えた男の所業のせいで結婚生活はじきに破綻した。光彦は幼い頃から、父に殴られ、蹴られる母の姿をみて育った。父は光彦をもしばしば折檻した。
 折檻された光彦は家を飛び出し、そのたび祖父のもとへ逃げ込んだ。祖父は光彦には甘かったのである。
 彼が9歳になったとき、家庭は決定的に崩壊した。父の借金が億を超えたのだった。この返済のため、祖父は血の滲むような思いをして一代で築き上げた資産のほとんどすべてを失わなければならなかった。
 祖父もさすがにもう彼ら一家の面倒はみきれず、縁を切ると言い渡した。
 両親は離婚し、頼みの祖父にも絶縁を宣告された光彦は、すべてに見放されたような気がしたという。
 一転して極貧生活へ落ちた光彦は、転校先でもいじめられ、次第に鬱屈していった。

 だが中学へ上がる頃には祖父の態度も軟化しており、ふたたび母親と祖父は親子関係を修復した。光彦は所属した少年野球のチームではエースの四番となり、恵まれた体格と腕力で他を圧倒した。しかし、一度ねじれた性質はもうもとへは戻らなかった。父親の性格を強く引き継いでいた、とも言えるだろう。
 学校では真面目な生徒を演じていたが、放課後ともなれば窃盗と飲酒にふけり、母親と弟を殴った。
 高校へは進学したものの、二年生の5月で自主退学。
 しばらくは祖父の鰻屋で働くが、暴力癖はおさまらずむしろ悪化していく一方であった。結局、鰻屋は「きついばかりでちっとも面白くない」と言って半年足らずでやめ、その後は夜の街でのバイトを転々として暮らすようになる。
 しかし遊ぶ金はいくらあっても足りない。祖父の店へ侵入し、売上金の120万を盗み、その1ヶ月後、また6万円を盗んだ。これを咎められ、光彦は祖父の顔面を蹴った。足の親指が左目に突き刺さり、眼球破裂で祖父は片目を失明した。

 18歳になりフィリピン人女性と結婚するが、彼女は3ヶ月足らずで母国へ帰ってしまった。
 不満を溜め込んだ関はフィリピンパブで働く女性を店には無断で連れ出し、アパートへ無理に泊めた。これに怒った経営者がヤクザに依頼し、関は200万円の慰謝料を請求される。
 彼が被害者の少女宅へ押し入り、あれほどの惨事を引き起こしたのも、そもそもはこの金策のためであった。


 
 逮捕時、関は「ああ、これで俺もついに少年院行きか」としか思っていなかった、という。
 1989年の綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人を思い起こし、「あれだけやっても誰も死刑になってないじゃないか。俺なんかまだまともだ」とも思っていたそうだ。

 しかし平成6年8月、地裁の判決は死刑であった。ついで高裁、最高裁ともに上告を棄却。
 平成13年12月、死刑が確定した。
 犯行時未成年で死刑判決が下ったのは、連続ライフル魔の永山則夫以来である。